おもてなしの心

2017年12月22日

『優しく先に』

 ふと気が付けば12月になっていました(本当にはやいですね…)。
 そうした中、先日、とても素敵な応対をしている方を見ました。その方が電車の切符売り場にいるスタッフの方で、お客さんが予定の立たなくなった切符を払い戻す時のことで、少し急ぎ気味にスタッフに話かけるお客さんの振る舞いから、切符を受け取る前に「何時の電車に乗られるですか?」と声をかけ、その時間を確認して、時間が迫っていることを知ると、丁寧に払い戻しにかかる手数料とその金額をわかりやすく赤字で切符に書いて、お客さんに提示して素早く渡していました。

 私も少し経験があるのですが、こうした切符の払い戻しの場合、まずは切符を機械等に通して、いろいろと切符のチェックをしてから最後に払い戻しの金額をお客さんに渡すというプロセスをたどることが一般的です(異なっていたらすみません、汗)

 しかしながら、私が見たこの方は、自身が行う作業を行う前にまず相手の状況を察し、確認し、その状況への最善の対応を優しく先に持ってきて、自身が行う作業(機械を通す等のチェック)をお客さんを見送ってから行っていました。
 その場において何を大事にし、どこに軸を置いて進めていくのかといったことを、スマートに優しく実践できるその姿は本当に素敵だと思いました。


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2013年05月16日

『見力』

 最近、大先輩・先生方の調査に同行することが多く、楽しく(というと何もしていないみたいですが、汗)ご一緒させて頂いているのですが、そうした時、思うことがあります。
 それは、先生方が何かを発見した時、その瞬間に醸し出す雰囲気がすぅっと変わることです。発見した瞬間、スイッチが入ったかのように、その発見した対象に思慮深く「入る」瞬間を感じます。その瞬間、あたりは一瞬静かになって凛とした空気が流れ、声もかけづらくなるほどです。おそらく、その思考はおそろしいまでのスピードで様々な事象が連結していっているのだということが、傍から見ていて感じます。明らかに僕が見えてないものを見ている雰囲気を感じ、とても及ばないのですが、そうしたことを感じる距離にいるだけでも、僕にとっては大きな学びになります。

 今目の前には見えないけど、そうした雰囲気を醸し出すまでに至るプロセスの深さにいつも感嘆します。例えば、僕は食べるのが好きで(今更ですが、笑)いろいろな飲食店に行かせて頂く機会も多いのですが、そこでもそうした雰囲気を感じる時があります。そうした雰囲気は、提供される料理の分野に適した器の選択、素材の良さとその素材に対する適切な料理法、味付け、さらに温度や店の中の様々な音といったことの選択から生み出されるトータルさから醸し出されるものだと思うのです。もちろん、僕がいうまでもなく(汗)例えば北大路魯山人は「客人を饗するの要(1〜4)」と「慎むこと(5〜7)」として訓戒を挙げています。

1「器席の清潔(清潔な器と席)」
2「菜肉の新鮮(新鮮な素材)」
3「割切の方正(正しい包丁づかい)」
4「塩梅の和協(素材に合った味つけ)」
5「茶酒の濃淡(濃かったり薄かったりするお茶と、熱すぎたりぬるすぎたりする酒)」
6「待児の不才(幼い子供が食卓の回りにはべったり、騒いだりすること)
7「主人の怒罵(女房の不始末を大声で怒鳴って怒ること)」
(平野雅章著『魯山人 もてなしの真髄』リヨン社,2003年,p37)

 雰囲気というのはそれぞれ感じ方が異なるものですが、そうした雰囲気が生まれる「起点」について関心を深めていきたいと思います。



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2010年12月31日

『観光理』について

 2010年も今日で最後ですね。2010年は奈良にとってビッグな一年で、多くの方々が奈良に足を運ばれたことと思います。今日は、ふと年の瀬に多くの方々は奈良に来て何を感じてどのような思い出を作って帰路に着いたのかなぁと考えていました。

 そう考えている時にふと思い出したのが、北大路魯山人の「料理と割烹」についての言です。「日本料理屋というふうに食いもの屋を呼ぶけれど、意味をなしていない。料理という字は、割烹のように煮るとか割くとかいう意味を含んでいない。『料理』すなわち、理(ことわり)を料(はか)る、理を考えるのは、とりもなおさず、割烹の内容を指すのであろう。料理は国を料理するでもいい、人間を料理するのでもいい。だから、割烹店の場合は、魚を料理する、蔬菜を料理する意が当てはまる。要するに、美味しいものをこしらえることは、調節、塩梅に合理が要る。合理的でなければならぬ一手がぜひ入用だ」(「料理と割烹」『魯山人美味の真髄』平野雅章著 p38)。

 この魯山人の言を受けて、著者の平野雅章さんは、「魯山人は、料理というものを献立づくりから使用した食器の収納に至る、一連の流れであると考えていた。家族や客の好み、季節から献立を考え、食器を考える。そして、食材を集め、調理(この部分が割烹)し、盛り付け、配膳する。さらに下がってきた器の料理の残りの有無を見て、調理等について反省をし、食器を洗い、収納する。もちろん、料理を食べる座敷や床の間の飾り、庭のたたずまい、仲居さんの衣装や話し方まで、これに伴ってくる」と解説されています。

 これらの言を観光から考えてみると、すごくクリアーに観光の真髄が見てくるように思えます。
 奈良に当てはめて考えると、人々が奈良に何を求め、その求めている好みに思いを馳せ、季節に応じた奈良の魅力を提供できる献立を考え、適切な器をい決める。そして、奈良の魅力となる素材を集め、編集し、盛り付け、来県者に提供する。そして、その反応をつぶさに捉え、おもてなしについて省察し、総括し次にお迎えにむけて準備を行う。その際、観光を味わう雰囲気、奈良に来るまでに心身共に快適来ることができる準備、おもてなしを行う関係者の統一された向かいいれる価値観と接し方と言い換えることができるのではないでしょうか。

 しかしながら、観光というと多くは、魯山人の言う割烹の部分のみで止まっているように思えるのです。そして、改めて思うことは、観光は「トータル」なんだということです。しかしながら、そのトータルさが観光の場合、料理屋よりも大きい分、実践としては難しいところは多大にあります。けれども、奈良でいえば、奈良という一つの「料理屋」をいかにして創り上げていくかということは、僕がここでいうまでもなく観光立県であれば必要不可欠なことです。

 そのためには、奈良を俯瞰し、コーディネートできる人々をいかに支援して育てていくかということと同時に、そうしたコーディネートできる人々が各機関の連携を促進していくことができる環境の場をつくっていくことが重要だと思います。そして、そうしたことができる人々は誰がどのように担っていく事が適正なのか、ということを研究していくことが2011年の奈良の課題であり、僕もチャレンジしたいことです。


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2010年06月11日

思考のインフラストラクチャー

 6月になってぐっと日が長くなり、なんだか一日がとても長く感じるこの頃です。ほんとは梅雨の長雨で外に出れない時に研究室に閉じこもってしたかった論文、研究助成等々の執筆を締め切りの関係上、2週間ほどずっと取り組んでいました(当然ですが…)。無事にいろいろな方々のご協力を得て、何とか完成させて提出することができてホッとしています。ありがとうございました☆

 そのような中、先日、参考資料を見るために奈良の大和郡山市にある市立図書館に足を運んだ折に、素敵な出会いがありました。大和郡山市図書館は、併設して喫茶店があり、外にテラスがあるのですが、その席に「バカの壁」や「死の壁」の著者で高名な養老孟司先生が座っておられたのです。トレードマークの眼鏡をはずして本を読んでいたのですが、お顔は拝見したことがあり、間違いなく養老先生だったので、お邪魔と思いながらもご挨拶をさせて頂きました。そしてとても気さくにお話をさせて頂きました☆
 お話を聞かせて頂くと、図書館に併設している市民ホールでの講演会があるということで来県されていたとのことで、講演前の貴重なお時間の中でしたがいろいろとお話をさせて頂きました。

 特に盛り上がったのは(一方的にですが、笑)、奈良についてのお話でした。養老先生に奈良についての印象を聞いたところ「ちょっとわきにおかれた感じですよね」というお話をされて、その後に、奈良と京都について聞いてみると、「京都はね、新幹線が通っていますよね」というお話をされて、奈良と京都との違いについて、「現代社会(高度な産業社会)」と「つながっているか」、「つながっていないか」ということについてに焦点をあててお話をされていると感じました。そして「つながっていないことは決して悪いことではない」と。
 そして奈良についていろいろとお話をしていて、養老先生は奈良にはよく来られてるというお話をしてくれました。そこで僕が何故ですか?と尋ねると、奈良公園付近でしか見られないという「ルリセンチコガネ」を探しによく来県されるとおっしゃっておられました。

rurisnckgn090409e330-1t←ルリセンチコガネです。奈良公園に生息するのは、鹿の糞を食料としているからとのこと☆(写真引用url:http://erbaf.blog95.fc2.com/blog-entry-217.html)恥ずかしながら初めて知りました…。











 そうした話題に続いて、現在、奈良県で行っている1300年祭のお話に移り、その中で養老先生が大和西大寺を通って大和郡山に入ったという経緯の中から、大和西大寺付近を例に挙げて「ちょっとごちゃごちゃしている」という話をされていました。
 ご存知の方も多いと思いますが、1300年祭のメイン会場となる最寄り駅は近鉄大和西大寺駅で、そこから歩いて平城宮跡まで行く事ができます。しかしながら、結構ごちゃごちゃしているのです(苦笑)。さらに、会場の中もけっこうごちゃごちゃしています(苦笑)。 
 こうしたお話を聞いていて、ふと思ったことは、先月の初めに平城宮跡で行われた平城遷都祭2010の開催期間中(5月1日、2日)に行われた「大和・食の体験館」での出来事です。僕は「大和・食の体験館」に運営スタッフ(といっても大したことはしていませんが)として参加していました。

Image3689←大和・食の体験館で提供された「万葉プレート」です。








Image3725←ここから…










Image3730←スタッフで詰めていきました☆








Image3749←万葉プレートの中身を、食の歴史・文化、そして万葉集と交えて紹介しています。とても万葉プレートと共に、とても好評でした☆









 当日はとても盛況で、県内外から多くの方々が大和・食の体験館をはじめ、平城宮跡の会場に訪れておられました。そうした中で、会場でお仕事をさせてもらっていると、大阪から来たという小さなお子さんを連れたご夫婦が「東大寺に行くにはどうしたらいいですか?シャトルバスでいけますか?」とあるスタッフに尋ねていました。尋ねておられた時の時間帯は15時頃。奈良市内の交通事情に詳しい方はご存知のとおりですが、休日の奈良市内の中心部は渋滞がかなり確率で起きています。
 そうした中で、東大寺まで平城宮跡からのシャトルバスを利用するとすれば、シャトルバスでJR奈良駅までいき、そこから歩いて、もしくはバスを乗り継いで向かうという手段か、タクシーで直接向かうというのが一般的です。

 しかしながら、先述したように奈良市内は渋滞の可能性が高い。そこで、そのスタッフはご夫婦に「どのようにして来られましたか?」とお話を聞いて、平城宮跡までは近鉄電車を使って大和西大寺駅で降りて歩いてきたとお話され、それを聞いたスタッフは「それでしたら、渋滞で車関係は厳しいと思いますので、大和西大寺駅から奈良行きの電車に乗って、近鉄奈良駅で降りて歩くのが一番はやいと思います」とお話されて、ご夫婦の方も快く採用(?)して駅に向かって行かれました。

 僕はこのスタッフをみて「すごいなぁ」と後日再度思いました。「後日」というのは、イベント終了後の報道で平城宮跡へ訪れた人々はかなり多かったのですが、そのほかに訪れた人々が例年より減ったということを聞いたからです。その原因はいろいろとあると思います。例えば、交通の連携などがその代表だと思いますし、実際、そういう指摘もありました。けど、そうしたことを聞いた時に、ふと思ったのは、シャトルバスなどの交通のインフラ整備はもちろん必要なのですが、それ以上に「思考のインフラ」が整備されきれていなかったのかなぁと思ったのです。

 思考のインフラ(造語ですが…)は相手の状況(お一人か、ご夫婦か、学生か、お子さん連れか、ご年輩等)に合わせて、尋ねられた時間帯、奈良市内の交通状況、目的地までの最適最速ルートを導き出し、それを優しく具体的にプレゼントするという相手の立場に立った力です。当日の会場では、開催して日も浅かったこともあると思いますが、多くのスタッフがまだ不慣れな事が多く、思考のインフラが整備されていなかったように思ったのです。

 もちろん、こうしたことを行うには、知識はもちろんのこと相手の方の状況や奈良市内の状況も察知して的確に発することができる力が要ります。こういう形にみえないことを形として見せていくことが奈良の観光に求められていると思いました。
 「現代社会(高度な産業社会)」では、形があるものやだれもが見れるものに価値や評価が傾きがちですが、こうした見えないことに力を傾けることと、傾けることができる環境を事前に準備してしっかりと作っていくことが大事だと思います。
 先述した「ごちゃごちゃしている」というのは、こうした人々の思考のインフラがまだ整備しきれていなくて、その結果、そうした印象を与えているのではないのかなぁと思うのです。
 奈良の魅力をハード・ソフト面からしっかりじっくりと整備していくことの大切さを客観的な視点から改めて示唆してくれて気がしました。養老先生、講演前の貴重なお時間をありがとうございました。


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2009年11月16日

愛しきパン

 先日、東京に足を運んだ時に、あるお店でパンを買いました。
 
Image2787←こちらのビル内に入っています。ついつい撮ってしまいました(笑)











 そのお店は全国にお店をもつパン屋さんなのですが、そのお店のバケットがとても美味しいのです。
 お店に入るといろいろなおいしそうなパンがいっぱい置いている中、ひときわ、長身(?)のパンが目に飛び込んできます。それはバケットで、お店の中央に凛とたっていて、とても美しく、けど、どこか寂しげにあって、まるで僕に会うのをまっていたかのように思えました(ほんまかいな!と突っ込まれそうですが、笑)。
 
 しかしながら、東京でそのバケットを買うと、ちょっとかさばってしまいそうなので、迷ったすえに一旦はレジに向かいました。けど、なぜかバケットが呼んでいる気がして(またまたほんまかいな!と突っ込まれそうですが、笑)、お店の方に「ちょっといいですか?」といって、バケットをその手にとって「これもお願いします」と。

 お店の方に持ち運びやすいようにバケットを4つ切りしもらい、お店を後にしました。そのあと、研究フォーラムに参加し、1泊して帰宅。一日経ったとはいえ、まだまだ香ばしさ薫るバケットを手に、少しだけオーブントースターで熱を加え、頂きました。

Image2582←頂きます☆













 そうして食べたそのバケットの美味しいこと。熱を加えることによって、バケットの香りは馥郁たるもので、口の中にいれるとその味と香りがいっぱいにひろがります。加えて適度に噛み応えがあって、またその食感が硬すぎず、やわらかすぎず美味しいのです。
 こうしたバケットそのものの美味しいさもさることながら、じつは僕にはもう一つの味をこのバケットから感じていました。それは、このバケットを作っている人がどのような思いでつくっているかということを知っていることからです。

 食べることにおける「味」というのは単に味覚から感じるものではなくて、様々な要素から成り立っています。味や見た目はもちろん、どのような器に入っているか、どういう状況で食べるか、なにを使って食べるかといったようないろいろなことが影響します。
 
 そうしたいろいろな中においても、一番大事だと僕が思うことは、だれがどのような思いで作ったかということを感じることだと思っています。当たり前ですが、食べ物ははじめからそこにあるのではありません。
 いろいろな思いや道を通じて、目の前まで来ます。そうして目の前まで来てくれた食べ物には、いろいろな思いがつまっていますが、普段、食べる時にそうしたことをあまり意識することはありません。

 けど、目の前の食べ物には必ず人の思いがあります。それは今、この時を同じように過ごしている人の思いや、パンをはじめに作った人々の思いといった過去、現在、そして未来に向かっている思いまで、いろいろな思いがいっぱいにあります。
 どの人の思いを感じるかは人それぞれ違うのですが、僕は頂いたバケットから、間違いなく作り手の思いを感じていました。そのバケットを作っている人が何を大事にしていて、どのようにパンづくりに取り組んでいて、そのために日々をどのように過ごしているかといったことが僕の中で心味になって、感じるのです。

 そうした思いを想い、感じ、食べたとき、やっぱり美味しいですよねぇ。
 これからの食べ事は、きっと、こうしたことを感じあっていくことが大事で、そうしたことを感じあえるような土づくりをしていくことが大事だなぁと、作り手のあたたかな思いと信念と愛がつまった美味しいバケットを頂きながら感じました。
 


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2009年09月23日

「やっぱり仕事はこうでなくっちゃ」

 先日、シルバーウィークの最中、朝の早い時間に用があったので外に出た帰りに、「だいぶ髪が伸びてきたなぁ」と思ったので、ふと散髪屋さんに立ち寄りました。かなり前から自宅の近くにある散髪屋さんなのですが、今回でまだ2回目になります。お店に入ると、60前後のであろう男の方々が6人ほどおられます。お店に入った瞬間、気持ちのいい「いらっしゃいませ」の声と同時に、とてもスムーズに散髪する席まで案内してくれます。少ししてから、「お待たせしました。どうされますか?」とのお声がけ。僕がこんな感じでお願いします、というと散髪スタートです。

 スタートして感じることは、そのスピードのはやいこと!そして、はやいだけではなくて、じつに切れがよく、かつ丁寧なのです。はやさと正確さと美しさをここまで同居できるのかという技の切れです。そして、僕なんかには思いもよらないようなハサミの使い方をして、銃砲無尽に、かつ、スマートに散髪を進めていくのです。
 ちょっとオーバーかもしれませんが、まるでハサミが生きているかのように、ただ切るだけではなくて、躍動感いっぱいに僕の頭の周りを飛び跳ねていくような感じなのです。その仕事はまさに「職人」。その道を歩き、ずっと積み上げてきた人でしか成し得ない「技」です。
 
 そうして散髪してもらっている時に、ふと、文化人類学者の大家レヴィ=ーストロースのブリコラージュの概念を思いました。ブリコラージュの本質は有限のリソース(資源)から無限の意味を引き出していこうとするところに野心がある概念を表します。まさにハサミという一つの資源から無限の意味を職人という人の手によって引き出されているなぁと。

 僕も含めて最近の若い方々(僕がいうのもほんとに変な話ですが)には、こうしたことがすごく足りない気がするとふと思います。というのも、これはあくまで感覚的なことですが、若い世代になればなるほど、例えば、一つのものに一つの意味しか見出さない傾向があるように思えるのです。人でも物でもある一面からだけをみて、その一面が駄目なら、もう他の何にも適合しないというような判断を下して、以降、見向きもしなくなるということが多いように思えます。けど、それってなんか冷たいなぁと僕は思うのです。

 これにはちょっと厳しいんだけど、これにはいけるんじゃない?というような、ゆとり、おおらかさ、そして次なる可能性を求める姿勢、こういったことが今あるものを大切にし、そこにあるものから未来への可能性を切り開いていく道のような気がして、とても大事に思えます。
 職人といわれる人々から生み出される有形無形の仕事は、そうしたいろいろなものに変化できる柔軟性とその柔軟性をささえる芯の強さがもう桁違いにあるように思えます。仕事をしている人の姿に躍動感があり、さらに美しさまで感じる時、やはりそれを生み出している方々は、きっとブリコラージュ的思考と実践をされている方々が多いように思うのです。

 今、目の前にあるものひとつひとつ積み上げていくことで、突き抜けていくんだなぁとシルバーウィークにゴールドの輝きを見た一日でした。


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2009年08月21日

「灯り」の転移

 今日は論文をゆっくりと(なんて余裕はありませんが、苦笑)書きに研究室に足を運んだ帰り、自宅最寄り駅に降り立つと、駅近くで夏祭りが行われていました。夏祭り会場は、家族連れが多く、とても盛り上がっていました☆

Image2020←駅からお祭り会場までライトアップされていました☆









 

 ところでふと、灯りをともす器が燈花会のそれに似ているなぁと思い、近づくと「燈花会」の文字が☆燈花会は、今年も8月上旬に行われて(僕も行きました)、今年で11回目となりますが過去最高の来場者数(79万7000人:奈良新聞より)ということを聞きました(ところで、いつも思うのですが、どうやって人数を調べているのだろう?)。
 
 同じ奈良において、こうした灯りの助け合いが行われているのですね。こうしたイベントの内容が発祥地とは異なる場所で見られることは、イベントにおいてはよく見られることです。奈良県立大学の遠藤英樹先生の論考に「伝統の転移」という概念があり(詳しくは、こちらの著書に執筆されています)、伝統の転移というのは、ある地域の伝統と表象されていたものが別の場所に移植され、別の場所の文脈において再定義されることを意味しています。
 燈花会は伝統と呼ぶには、まだ少し早い気もしますが(必ずしも年数だけで伝統は計れませんが)、地域で表象されていたものは、別の場所に移植されるというところに、駅近くの夏祭りはあてはまっています。

 ここで注目したことがあって、それは転移の範囲が「県内」ということと(伝統の転移では、主として県外を対象としています)、さらに、燈花会で使用された灯りの器を使っているというところです。この文脈の中では、遠藤英樹先生のいう「再定義」という要素はやや薄まるのですが、その代わりに県内における「ゆるやかな人と人とのネットワーク」が見えます。おそらく、夏祭りの実行委員会の方々が燈花会の実行委員会に出向き、お借りしたのだと思い、そうした中には、必ず、人と人とのつながりがあって、そうした「関係」が灯りという形となって表れていると思うのです。

 けど、一方で表面的にみれば「奈良らしいなぁ」と思うところもあります。ここでいう奈良らしさというのは、何か一つの大きな成功があれば、そのことを援用して追随してしまう傾向があるというところです。これは見方によっては悪い意味で聞こえますが、県内での援用に限っていえば、県という枠で灯りを通してゆるやかなつながりが生まれるきっかけづくりになって、奈良=灯りというイメージ形成になるという要素もあります。
 その中できっと大事なことは、単純に真似るというだけではなくて、灯りをかりるという転移の中に、遠藤英樹先生がいうような再定義がどのような形で行われるかということだと思います。転移した中から、どのような意味を見出して転用するか、また、転用して発信する人とその発信を見る人との間に、どのような関係性を作っていけるのかということが大事ではないかなぁと思います。

 そうした関係性がないと、燈花会の縮小版、もしくは便利版(燈花会は人が多いから、近くのお祭りで済まそうといったような)になってしまうと思うので、それは寂しいです。
 単なる真似と捉えるか、人と人との関係性から織り成される新しい創造の一歩なのか、関係性の意味づけや発信の仕方・捉え方によって、灯りの輝きが違うように見えるのが不思議です。



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2009年02月08日

「アナウンス」

 またまた寒くなってきたかなと思うこの頃ですが、ニュースでは杉花粉が今にも飛び立つという話題がでており、以前、森林問題を卒論のテーマにしていた後輩のことを思い浮かべ、なにより、大事な方々がなんとか杉花粉で苦しまないようにと願うばかりです。

 そうした天気の中、先日、電車を乗っている時にとても印象深い電車のアナウンスを聞きました。電車のアナウンスというのは、気にしていなければあまり意識しないものなのですが、その時、僕が聞いたアナウンスはとても流暢でかつわかりやすくしっかりと、それでいて、ユーモアがある(どんなんやと突っ込まれそうですが、笑)アナウンスで「おっ!」と印象に残ったのです。

 この「おっ!」と思わせることというのは、とても大事なことだと思います。その「おっ!」というのは、その方がもつ力です。けど、その力は決して一人で積み上げてきたものではなくて、いろいろな先人のお仕事の学びの上で成り立っているのだと思います。
 電車のアナウンスで伝える内容というのは、先人達の仕事の積み重ねで最適な情報化がなされていると思います。大事なのは、そうして情報化された語集を、現場で伝える人がどのようにつかみ(感性)、なぜ伝えるのかを知り(理論)、そして、どのように伝えるか(技術)ということがしっかりしていないと、相手に届かないと思うのです。

 以前、尊敬する師から、そうした感性と理論と技術を持って表現し、それが世の中の半数以上の人に受け入れたら評価されるという深奥をついた大事なお言葉を頂いたことがあります。
 その時の車内において、半数以上が「おっ!」と思ったかどうかは確かめることができませんが、感覚的に「おっ!」と思っている人が多かったと思うのです(あくまで感覚的ですが)。

 アナウンスする時は、そうした背景があってこそ伝わるのではないかなぁと思います。僕の研究分野である食文化論での第一人者的な存在である前国立民族学館長の石毛直道先生も、当時、研究会終了後に自ら作った料理を振舞っていたというお話が逸話として残っています。名だたる研究者が集まる研究会後にそうする先生はなかなかいません。けど、そうして自らでつかんでいるいるからこそ、石毛先生の書かれた本は読みやすい(伝わりやすい)というお声をよく聞き、食文化に関する研究論文についての引用数も圧倒的に多い(これもまた感覚的ですが、苦笑)印象があります。

 言葉一つ、文字一つが、しっかりとアナウンスされ、かつ、伝えることができるようになるには、超えるべき壁がまだまだあることを偉大な仕事をしている方に、街角で出会う度に学ばせて頂いています。



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2009年02月03日

「恵方」

 本日、京都で行われた観光と環境をテーマとした国際シンポジウムに参加してきました。シンポジウム会場は京都の今出川にある能を公演する立派な場所で行われました。今日は昼から雨がしとしとと降り、雨音が傘にあたって詠う中、趣のある会場に足を運んだのはよかったのですが…。

 やはり、国際シンポジウムというのは難しいのでしょうか、特に海外から、「スローフードからスローツーリズムへ」というタイトルで高名な学会の役職をされている方が発表するということで楽しみに聞かせて頂いていたのですが、発表内容に「おっ!」と思うところがなく、どこにでもあるシンプルな発表で「これは、日本を甘くみられたなぁ」と生意気ながら密かに思っていました。

 その他の方々の発表も取組み事例としてはとても素晴らしいご発表なのですが、どうしても「ここではこういういいことをしています」という限定的な発表で、ではそれを、大きな枠組み(ここでいうと、「観光と環境」)にどのように位置付けて、他にも応用できるかという全体への配慮の視点が著しく欠けていた気がします。
 もちろん、そういったことは、会場に来た聴衆一人一人が自分で考えて、持ち帰って実践していくことが大事だという意味もあるとは思います。しかし、僕には「この事例をぜひともあなたのところでも参考にしてもらえれば幸いです」というより、「うちはこういうことをしています。素晴らしいでしょう」というように聞こえてしまうのは、僕の性格の悪さでしょうか(苦笑)。

 けど、この「差」は何か生まれるのかなと思います。僕みたいな捉え方をした人に対して、そのように考えるのは、その人自身のパーソナルな問題として処理してしまうことはちょっと寂しい気がします(自分でいうなという話ですが、苦笑)。
 それで、ちょっと僕なりに考えてみると、僕がこう思ってしまったのは、おそらく演者の方々が「伝えたい!」と思うより、「発表したい!」と思って発表したからではないかなぁと。
 シンポジウムの最大の目的は、掲げられたテーマに対して、会場にいる全ての人々が「共有感」をもつことだと思います。共有感をもってお互いに、その場で掲げられたテーマに対して、「うんうん」と肯定し、共感していかないと、テーマに対して進んでいこうという「気持ち」が出てきません。
 
 こうした共感の気持ちを発生させるには、演者(のみに限らず、主催した関係者みんなが)が「発表したい!」という自分の欲に向かうのではなくて、「伝えたい!」という自分以外の対象者に欲が向いていないと、聞いている人々は置き去りにされた感じを得てしまうのではないでしょうか。今日、僕にはそれが起こってしまったのかなぁと。うーん、シンポジウム、難しいですね…。

 と、思いながら帰路につくと、母が節分の恵方巻きを用意してくれていました。

Image828←食べやすいように切りました☆もちろん、これは二つ目ですが(笑)













 とっても美味しく頂きました。そこでふと、僕がそう思ったのは、きっと母が今日は節分だから恵方巻きを「用意したい!」ではなくて、節分だから「食べさせたい!」と思って食卓の上に出してくれたからだと思いました。恵方をしっかりと定めることはとても大事なことだなぁと恵方巻きをお腹いっぱい頂いて思った学びの多き一日でした☆





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2008年09月28日

おもてなしの心

 身内事ですが、本日は最愛の弟(というと気持ち悪いでしょうか、笑)の引越しがあり、お手伝いに行きました。弟は兄とは違って(苦笑)自立した男なので、兄としては引越しの時ぐらいしか活躍がありません(笑)。
 今日は薄曇りで涼しいという絶好の引越し日和だったので、順調に引越しを作業を行っていました。

 そんな中、ふと運ぶ荷物に目をむけると、本が6から7冊ぐらい束になって、まるで廃品回収に出すみたいに紐でしばられている本群(こんな言葉あるかな?、笑)がありました。
 弟に、「これは廃品回収に出すのか?」と聞くと、「ちがうねん、荷造りの手伝いにきてくれた人が結んでくれてん。新居にもって行く分なんやけどな」と。「それやったら、ダンボールか何かに入れた方が車までは運びやすいのになぁ」というと、「俺もそう思ってんけど、せっかくやってくれてる姿をみたらいえなくてなぁ」と。

 僕は「あぁ、ほんと、そうだよなぁ」と思いました。
 何も聞かないで、今、そこにある状態だけをみれば、確かにその本の状態は運ぶということには適さないかもしれません。
 けど、その本の姿には間違いなく、弟の引越しを手伝いに来てくれた方の心がありました。そして、その心を大切にする弟の心もありました。
 
 身内のことなので恐縮なのですが、僕はその二人の心を感じて、これこそが「もてなしの心」の源泉だなぁと思ったのです。
 例えば、食べることにしても僕なんかは往々にして思ってしまうのですが、仮に奈良の飲食店でお刺身が出てきたとします。この時、「なんで奈良で刺身を食べないとあかんねん」と思ってしまいます。
 けど、海のない奈良においてお刺身は「ご馳走」なのです。
 確かに刺身だけをみれば、批判も出て、時として怠慢と捉えられるかもしれません。だけど、お刺身を出す心には、その人が精一杯思う「ご馳走してあげたい」という心があると思うのです。
 
 もちろん、出されてきたお刺身を批判することも必要なことだとは思います。けど、今そこにある人の思いや価値観を大事していくことの方が、もっと必要なことだと思うのです。
 そうすることで、場の雰囲気がとてもよくなっていって、「一緒にモチベーションを高めて歩いていきましょう!」ということになるんじゃないかなぁと☆
 
 もちろん、お金を頂いて行うお仕事と、そうではないお仕事とではまたいろいろと条件も変わってくると思います。もしかしたら、もてなしの心はお金に換算したらなくなってしまうものかもしれません。でも、お金を頂いて行うお仕事も間違いなく必要です。となれば、やっぱり、バランスよく半々ぐらいがいいのかなぁと思ったりします☆
 100%対価で判断するのは基準が明確で楽とは思いますが、半分は、ともすればしんどい部分でもあるこうした「もてなしの心」があると、いい感じになっていくんじゃないかなぁと☆

 弟の引越しからだいぶ飛躍しました(笑)
 なかなか、言うは安し、するは難しですが、弟の引越しから改めて大きな気付きを得さしてもらえた初秋の一日でした☆

 

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